産業医科大学医学科のまっちです!
私は大学を一度卒業し、社会人としての会社員生活を経験した後に、再受験という形で医学部に入り直しました。現在は産業医科大学の医学科で、将来、働く人たちの健康と命を支える産業医、そして医師になるために、本当に充実した毎日を送っています。
今日は、医学部受験を控えて日々の勉強に励んでいる高校生の皆さんや、何度も冷たい壁にぶつかりながら机に向かっている浪人生の皆さん、そして「もう一度人生をやり直したい」と心の中で静かに、でも熱く再受験の炎を燃やしている社会人の皆さんに向けて、私のリアルなストーリーをお届けしたいと考えています。
具体的には、かつて医学部や病院が本当に大嫌いだった私が、なぜ人生を大逆転させて産業医科大学を目指すことになったのかという、医師を志した本当のきっかけについてです。 そしてもう一つは、多くの受験生が直面する、医学部の面接試験で自分をどのようにアピールすれば良いのかという、中高時代や社会人時代の経験を面接の最大の武器に変えるための、ボランティア活動と継続力の磨き方について、私の泥臭い失敗談を交えながら本音で語っていきたいと思います。
一般的に、医学部受験の面接対策の本や、予備校の面接指導などでは、 「面接で高く評価されるためには、部活動の部長や生徒会の会長といった、優等生的なリーダー経験をアピールしなさい」 と言われることが多いと思います。 また、医師を志す志望理由に関しても、「幼い頃から人の命を救う医師になるのが夢でした」といった、絵に描いたような清廉潔白な動機が標準的だとされています。
しかし、私はそれらの一般的なアドバイスや常識に対して、自分自身の波乱万丈な人生経験から、少しだけ疑問と新しい視点を持っています。
本当に、面接官が聞きたいのは、誰もが判で押したように語る優秀なリーダーシップ経験だけなのでしょうか。そして、立派な志望理由が最初から用意されていなければ、医学部に合格することはできないのでしょうか。
今、果てしなく高い医学部の合格ラインを前にして、自分のこれまでの平凡な経歴に自信を失っている受験生の皆さん。 さらに、社会人を経て医学部を目指しているけれど、面接で「なぜ今さら医師になりたいのか」を突っ込まれたらどうしようと、夜も眠れないほどの強い不安を抱えている再受験生の皆さん。
よし、今日も1日頑張るぞと意気込んで願書を書き始めたのに、自己推薦書や志望理由書の欄を前にして、自分には他人に誇れるような特別なエピソードが何一つないなと急に焦ってしまい、ペンを握る手が止まってしまうことはありませんか。
また、面接の練習で「あなたの強みは何ですか」と聞かれて、特に長続きした習い事もないし、趣味も三日坊主で終わってしまう自分の飽きっぽさに、深いコンプレックスを感じてはいませんか。
そんな風に思い悩んでしまうこと、ありますよね。そのお気持ち、私には本当に痛いほどよく分かります。なぜなら、私自身がまさに、かつては長続きした習い事が何一つなく、趣味もすぐに飽きてしまう継続力ゼロの自分に強い引け目を感じていた、ごく普通の、いや、普通以下の葛藤だらけの人間だったからです。しかも、若い頃は病院に行くのもお医者さんに会うのも本当に嫌いで、医学部には絶対に行きたくないと頑なに思っていたほどでした。
しかし、そんな私がいくつかの人生の転機を経て、宮崎大学や他の薬学部などの選択肢を模索しながらも、最終的に産業医科大学の医学科に進学し、面接試験でも高い評価をいただいて合格を勝ち取ることができました。その歩んできた日々を振り返ってみると、決して最初から優秀なリーダーである必要はありませんし、コンプレックスだらけの自分であっても、日々の小さな行動の起こし方やマインドを変えてあげるだけで、面接官の心をグッと引きつける素晴らしいエピソードは誰でも今から作り出すことができるという真実が見えてきます。
今日は、皆さんが心の中に抱えている、面接対策への漠然とした恐怖や、自分の経歴に対する焦り、そして継続力がないという深い悩みに優しく寄り添いながら、読んだ後に少しでも気持ちが軽くなり、明日からの挑戦がワクワクするものに変わるような新しい視点を、私のリアルな体験談を交えて丁寧にお話しさせていただきます。どうぞ最後までお付き合いくださいね。
第一章 医学部には行きたくなかった私が医師を志すことになった最初の転機

1 病院とお医者さんが大嫌いだった、幼少期の私のリアルな記憶です
私は、最初から医師を目指してエリート街道を歩んできた人間では、本当にありませんでした。むしろ、若い頃の私は、「医学部には絶対に、何があっても行きたくない」と本気で思っていたタイプの人間だったのです。
なぜそれほどまでに医学部や医師という存在を拒絶していたのかと言いますと、私にとって、病院やお医者さんという存在は、幼少期の非常に寂しくて恐ろしい記憶と深く結びついていたからでした。
私の母親は、私がまだ本当に幼くて、母親の温もりを一番必要としていた時期に、病気のために何度も大きくて重い手術を経験しました。 子供の私にとって、母親が手術室に入っていき、病室のベッドでたくさんの管に繋がれて弱り果てている姿を見ることは、言葉では表現できないほど恐ろしい出来事でした。 幼い私は、 「大好きなお母さんが、あの冷たい病院という場所に奪われてしまうのではないか」 という、得体の知れない強い恐怖と孤独感を、病院の待合室の硬い椅子の匂いとともに、ずっと胸の奥に刻み込んでいたのです。
当時の不器用な私には、お医者さんという存在が、病気を治してくれるヒーローのようには、到底見えませんでした。 「お母さんに痛い思いをさせて、注射を打つだけの冷酷な人たちなのかな」 と、歪んだ見方をしてしまっていたのです。 病院の冷たい廊下の雰囲気や、消毒液のツンとした独特の匂いを感じるだけで、胸がキリキリと締め付けられるような気がしていました。だからこそ、医療という世界からはできるだけ遠い場所で生きていきたいと、固く決意して最初の大学へと進学したのです。
2 レスパイトハウスでのボランティアが、私のお医者さん観を180度変えました
そんな医療嫌いだった私の冷え切った心を、根本から温かく溶かし、お医者さんに対するイメージを180度変えてくれる、決定的な出来事が大学時代に訪れました。それが、ある重症障害児施設での「ボランティア活動」との出会いでした。
当時、私が所属していた大学の研究室の大学院に、30代という大人の年齢で、非常に熱心に研究をされている素敵な先輩が在籍していました。その先輩は、 「重症心身障害児のための、体への負担が非常に少なくて快適な、特注の衣服の設計に関する研究」 を、日々寝る間も惜しんで行っていたのです。
ある日、その先輩がボランティアの繋がりから、 「まっち、今度、重症心身障害児のご家族を一時的に休ませてあげるためのレスパイトハウス(一時預かり施設)のお手伝いボランティアに行くのだけれど、もしよかったら一緒に来てみないかい」 と、私を誘ってくれました。
それまでの私であれば、病院や福祉の現場と聞いただけで身を引いていたはずでした。しかし、その時はなぜか、「あの尊敬する先輩が一生懸命に取り組んでいる世界を、少しだけ覗いてみたい」という、本当に軽い好奇心から、 「はい、ぜひ一緒に行かせてください」 と、軽いノリでついて行くことにしたのです。
そのレスパイトハウスで私が目にした光景は、これまでの私の狭い世界観を、文字通り粉々に打ち砕くほどの、とてつもない衝撃に満ちていました。
そこには、寝たきりで自分の意思を言葉で伝えることができない重症の子供たちと、その子たちを24時間体制で、張り詰めた緊張感の中で介護し続け、心も体も疲れ果ててしまっているご家族の姿がありました。 そして、その過酷な現実のただ中で、子供たちの小さな変化を優しい目で見守り、お母さんやお父さんたちの肩の荷を少しでも軽くしてあげようと、家族の心のケアにまで深く寄り添って奔走している、ある医師の姿があったのです。
そのお医者さんは、かつて私がイメージしていたような、冷たくてただ注射を打つだけの人では、決してありませんでした。 子供たちの小さな笑顔を引き出し、ご家族の張り詰めた心を温かい言葉で優しく包み込んで下から支えてあげる、本当に人情味に溢れた、太陽のような素晴らしい存在だったのです。
「こんなに誰かの人生を、温かく救うことができるお医者さんがいるんだ」 「なんてかっこいいんだろう」
自らの五感を使って、その現場のリアルな空気とぬくもりに触れた瞬間、私の胸の奥で、かつて凍りついていた「病院嫌い」の心が、音を立てて崩れ去っていきました。そして、 「自分も、このお医者さんのように、誰かの最も辛い瞬間に寄り添い、その人生を優しく温かく救ってあげられる人間になりたい」 という、医師への憧れの小さな種火が、私の心の中に初めて灯ったのです。
第二章 社会に出て痛感した、会社の闇と「産業医」という存在の絶対的な必要性
1 ひどすぎる労働環境を、新入社員の私の声では誰も聞いてくれませんでした
大学を卒業した後、私は医療の道へすぐには進まず、一度普通に企業へ就職し、社会人としての会社員生活をスタートさせました。そこで待っていたのは、想像を絶するほどに過酷で、働く人々の人間としての尊厳を奪い去るような、劣悪な労働環境(会社の闇)でした。
毎日、朝早くから深夜まで終わりのない業務に追われ、自席でため息をつきながらパソコンの画面を見つめる同僚たち。 上司からの理不尽なプレッシャーによって、精神的に追い詰められ、日に日に顔色が悪くなっていく先輩。 オフィス全体に、重苦しくて息の詰まるような、マイナスのエネルギーがどんよりと停滞していました。
新入社員だった私は、 「こんなにボロボロになってまで働くなんて、絶対に何かがおかしいです」 「この業務プロセスや、休みの取り方を少し改善するだけで、みんながもっと健康に、笑顔で働けるようになるはずです」 と、素朴な疑問と強い憤りを感じていました。
そこで、勇気を振り絞って、 「これ、こうした方がみんなの体調も良くなりますし、効率も上がるのではないでしょうか」 と、上司や会社の幹部に対して、改善の提案を直接口にしてみたことがありました。
しかし、その時に返ってきたのは、 「新入社員の君が、会社の経営や労働環境について口を出すなんて10年早いよ」 という、本当に冷たい、鼻であしらうような言葉でした。
組織という高い壁を前にして、私の小さな、でも切実な声は、誰の耳にも届くことなく、ただオフィスの天井へと消えていきました。 「そっか。自分の今の立ち位置では、いくら正しいことを叫んだところで、会社のルールを1ミリも変えることはできないんだな」 「この会社で発言権や権力を持つためには、ここから死ぬ気で出世して、あと10年以上もこの地獄のような環境に耐え続けなければいけないのだろうか」 と、言いようのない深い無力感と絶望に、当時の私は打ちひしがれていました。
2 ドクターストップという、医師の意見でなければ社会は動かないという真実です
日々の業務の中で、ある決定的な真実に気がつきました。 それは、「どんなに優秀な社員や、役職のある経営陣であっても、お医者さんの下す『医学的見地(ドクターストップ)』という重い意見には、絶対に逆らうことができない」という、社会の現実的なルールでした。
どれだけ会社がその社員を働かせたいと思っていても、 「これ以上働かせることは、この人の健康生命にとって極めて危険です。今すぐ休職させてください」 という医師の診断書が1枚出されれば、会社は法的な責任や社会的な信用のために、何が何でもその命令に従い、業務をストップさせて労働者を保護せざるを得なくなります。
「お医者さんの言葉だけが、この理不尽な会社の暴走を止め、働くみんなの命を救うことができる、最強の盾になるのだな」
この大きな気づきを得たのとほぼ同じ時期に、私は社会に出て初めて「産業医(さんぎょうい)」という職種の存在を詳しく知ることになりました。 産業医とは、病院の中で患者さんが来るのを待っているだけの医師ではなく、自ら企業の労働環境の中に深く踏み込み、そこで働くすべての人々が健康で安全に、生き生きと働き続けられるように、医学的な専門知識を持って会社に直接指導を行う唯一の存在です。
「これだ。私がやりたかったことは、まさにこの産業医の仕事そのものだ」
新入社員の立場では誰も聞いてくれなかった「働く人を救いたい」という切実な想いが、産業医という専門の立場を得ることで、初めて会社を動かし、労働環境を根本からクリーンに変えていくための、最も強力な武器になるのだと確信しました。 この「産業医として、理不尽に押し潰されそうな労働者の健康と命を救い、社会を内側から優しく支えたい」という強い使命感こそが、私が絶対に避けたかったはずの医学部受験に、もう一度、人生を賭けて再受験に挑むことを決意させた、最大の、そして何より本物の理由だったのです。
第三章 趣味も習い事も続かなかった私が挑んだ継続の実験

1 何をやっても長続きしなかった、継続力ゼロの私のコンプレックスです
医師を本気で目指そうと決意したものの、私の心の中には、自分自身の性格に関する、非常に根深い「コンプレックス(弱点)」が常に存在していました。 それは、「自分には、物事を最後までやり遂げるための継続力が、本当に、これっぽっちもない」という事実でした。
私の過去を振り返ってみますと、子供の頃から、
- 親に勧められて始めた習い事も、数ヶ月で面倒くさくなって辞めてしまう
- 楽しそうだと思って買った趣味の道具も、数回使っただけで部屋の隅でホコリを被ってしまう
- やり始めの時期はすごく情熱的で楽しいけれど、少しでも壁にぶつかるとすぐに飽きて投げ出してしまう
というような、本当に典型的な三日坊主を、人生の中で何度も何度も繰り返してきました。
「私は、何かをコツコツと長く続けることができない、本当に意志の弱い不器用な人間なんだな」 と、自分のことが大嫌いでしたし、そんな自分の飽きっぽさに深い引け目を感じていたのです。
しかし、医学部を受験する、しかも何千時間もの地道な自習が求められる最受験に挑むためには、この「継続力のなさ」は、致命的な欠陥になります。 「このままの自分の性格で、過酷な医学部受験を最後まで走り抜くことなんて、絶対にできっこない」 「面接試験で『あなたがこれまでに一生懸命に継続してきたことは何ですか』と聞かれたら、話せることなんて本当に何一つないな」 と、自分の過去を振り返っては、どうしようもない不安と葛藤に押し潰されそうになっていました。
2 好きな韓国アイドルの毎日1時間ラジオを、1年半欠かさず聴き続けました
そこで、大学生だった私は、自分のこの弱い性格を根本からリフォームして変えるために、ある、少しユニークな「継続の実験」を自分自身に課してみることにしました。
その当時、私は大好きな韓国のアイドルの熱心なファンだったのですが、そのアイドルが、毎日1時間、インターネットで生のライブ配信ラジオ番組をやっていたのです。 私は、 「よし、この好きなことへの情熱を利用して、この毎日1時間の生の韓国語ラジオを、1日も欠かさず、1年半の間、完璧に聴き続けてみせよう」 と決意しました。
今までの私であれば、 「今日は疲れたから明日でいいや」 「ちょっと予定があるから、今日くらいはサボってもバレないよね」 と、すぐに妥協していたはずでした。
しかし、この実験での私のマインドは、これまでとは全く違っていました。 「これは、単なるオタ活(ファンの活動)ではない。自分の継続力ゼロという人生の最大のコンプレックスを、自らの手でぶち壊して、面接で自信を持って語れる強みへと進化させるための、人生を賭けた戦いなんだ」 と、強い覚悟を持って、日々のラジオ配信に臨んでいました。
3 掲示板にコメントを読まれたい一心で、韓国語のタイピングとリスニングを極めました
とはいえ、ただ毎日スピーカーから流れてくる韓国語をだらだらと聞き流しているだけでは、途中で飽きてしまうのは目に見えていました。 しかも、始めたばかりの私の韓国語の実力は、いくつかの簡単な単語の意味を知っている程度で、彼らがラジオで楽しそうに喋っている日常会話の内容は、本当に何一つ聞き取ることができないという、絶望的なレベルからのスタートだったのです。
そこで私は、この毎日のラジオを「最高にスリリングで楽しいゲーム」に変えるための、1つの画期的な工夫を取り入れました。
それは、「生のライブ配信中に、番組のリアルタイム掲示板に韓国語でコメントを書き込み、大好きなメンバーに自分の名前とコメントを読んでもらうこと」でした。
番組の中には、 「誰々さんからのコメントです。今日の服装はとても素敵ですね、ありがとう!」 と、掲示板のメッセージをピックアップして、エピソードトークを交えながらその場で読み上げてくれる、ファンにとってはたまらない夢のようなコーナーが用意されていました。
「絶対に、私の書いたコメントをメンバーに直接読んでもらいたい!」
この燃え上がるようなパッションが、私の脳に最高のブースト(加速装置)をかけました。 リアルタイムで流れていく掲示板に、タイミングよく意味の通じる韓国語のコメントを書き込むためには、
- まず、彼らが今、何について喋っているのかを正確に聴き取るための、極限のリスニング力
- そして、頭に浮かんだメッセージを、ハングルのキーボードで瞬時に、かつ正確に打ち込むための、素早いタイピングスキル
の2つが、絶対に必要不可欠になります。 私は、パソコンやスマートホンの画面にかじりつきながら、 「今の言葉はどういう意味だろう、すぐに辞書で調べよう」 「ハングルのこの文字は、キーボードのどこを押せば早く打てるだろうか」 と、必死に手を動かして格闘し続けました。
毎日1時間、耳を研ぎ澄まし、キーボードを叩き続ける泥臭い挑戦。 これを本当に、雨の日も風の日も、自分の体調が悪い日も、テスト期間中の忙しい日であっても、1年半の間、ただの1日も欠かすことなくやり抜いたのです。
その結果、奇跡のような素晴らしい成功体験が、私を待っていました。
最初は全く文字すら打てず、何を言っているのか分からなかった私が、1年半の継続の末に、なんと通算で10回以上も、大好きなメンバーに自分のコメントを直接生放送で読んでもらうことができたのです! 「まっちさん、コメントありがとうございます!」 と、耳元から自分の名前が聞こえてきたあの瞬間の、脳が痺れるような深い感動と達成感は、今でも私の胸の中に色鮮やかに残っています。
さらに驚くべきことに、この1年半の継続の副産物として、私の韓国語の実力は、いつの間にか日常会話であれば全く不自由なくスラスラとこなせるレベルにまで、大進化を遂げていました。 その後、ラジオを通じて親しくなった韓国人の友達が日本に来た際、ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)などの色々な場所に一緒に遊びに行き、丸1日の間、すべて韓国語だけで楽しく喋り通すことができるほどの実力が、私に身についていたのです。
「継続って、本当にすごい力を秘めているんだな」 「三日坊主だったこの私でも、ルールを決めてパッションを持って取り組めば、こんなにも自分を変えることができるんだ」
この「好きなアイドルのラジオを1年半聴き続けた」という、一見すると受験勉強とは全く関係のない、些細でオタク的な趣味のエピソードが、私のなかの「継続力がない」という大きなコンプレックスを完璧に破壊し、面接試験で誰に対しても胸を張って語ることができる、一生モノの最強の自信へと生まれ変わったのです。
第四章 会社員時代のお弁当作りとインスタ投稿。日常を面接のネタにする方法
1 毎日のお弁当作りをインスタにアップし続けた、もう一つの泥臭い継続です
韓国語のラジオでの成功体験によって、継続の楽しさに目覚めた私は、社会人になって会社員として働き始めてからも、もう一つの新しい「継続のプロジェクト」に挑戦していました。 それが、「仕事に行く毎日の手作りお弁当を、1年半の間、作り続けてインスタグラムに写真をアップすること」でした。
社会人の生活は、本当に朝が早くて、仕事が終わるのも遅く、毎日クタクタに疲れ果てています。 そんな忙しい日々の中で、毎朝少し早く起きて、自分のために栄養バランスの整った可愛いお弁当を作り、それを写真に撮ってSNSに投稿し続けることは、並大抵のエネルギーでは長続きしません。 実際、最初の頃は、お弁当が茶色くて地味なおかずばかりになってしまったり、朝寝坊して「もう今日はコンビニで買えばいいや」と諦めそうになったりする日が、何度も何度もありました。
しかし、私はここでも、 「このお弁当作りを毎日インスタに公開することで、人に見られているという適度なプレッシャーを味方につけよう」 「フォロワーの皆さんからのいいねやコメントを、毎日の継続の楽しみに変えていこう」 と、工夫をして取り組みました。
少しずつ、お弁当のおかずの詰め方を工夫して彩りを良くしたり、 「明日の朝が楽になるように、夜のうちにここまで下ごしらえを終わらせておこう」 と、時間のやりくりをハックしたりしていきました。
このお弁当作りを毎日インスタに投稿する活動を1年半続けた結果、私のSNSアカウントのフォロワー数はグングンと増えていき、 「いつも美味しそうなお弁当で、毎朝の励みになります!」 「私もまっちさんの投稿を見て、今日からお弁当作りを始めました!」 というような、嬉しいメッセージをたくさんいただけるようになりました。
この2つ目の継続の成功体験も、私の「自己管理能力」と「目標に向かって地道に努力を続ける力」を客観的に証明してくれる、本当に素晴らしい財産になりました。 毎日の仕事がどれほどきつくても、お弁当作りを通じて自分の健康管理を徹底し、それを世界に向けて発信し続けたという事実は、面接官にとっても、あなたの人間性や医師としての自己管理の適性を評価する上で、非の打ち所がない最高のアピールポイントになります。
第五章 優等生的なリーダー経験は不要。面接官の心を揺さぶるボランティアの力

1 部活動の部長などのありきたりなアピールは、面接官の耳を通り過ぎてしまいます
さて、ここまでの私の泥臭いエピソードを読んでくださった皆さん、心の中の葛藤が、少しずつ整理されてきているのではないでしょうか。
医学部の面接対策を考えるとき、多くの受験生が、 「高校時代に部活動の部長をしていました」 「生徒会の役員として、学校行事の企画や運営を頑張りました」 といった、いかにも優等生的で、非の打ち所がないリーダーシップの経験を、大きな声でアピールしようと必死になります。
確かに、そうした経験は非常に立派ですし、面接で話せる話題の1つにはなると思います。 しかし、ここで面接官の立場に立って、少しだけ冷徹に現実を考えてみてください。
医学部の面接試験において、面接官は何十人、ともすれば何百人もの優秀な医学部受験生を、朝から夕方まで何日も連続で評価し続けています。 そんな疲れている面接官の前で、 「私は部活の部長として、みんなをまとめて大会で成果を出しました!」 という、どこかの面接参考書からコピペしてきたようなありきたりな優等生アピールを繰り返したところで、 「あぁ、またこのパターンの話か」 と、面接官の耳を右から左へと、ただ素通りしていってしまうのが関の山です。 他の優秀なライバルたちの中に、あなたの存在は一瞬で埋もれてしまい、何の印象も残すことができなくなってしまいます。
2 ボランティアは、自分が普段絶対に踏み込まないような世界に触れる機会をくれます
では、何百枚もの受験生のアピール書類や面接の中で、一際輝きを放ち、面接官の心を深く揺さぶって「この人をうちの医学部に合格させたい!」と思わせるためには、一体どのような話をすれば良いのでしょうか。
私が強くお勧めする提案は、リーダーシップなどの背伸びをした優等生アピールを一旦脇に置いて、「自分が普段の生活では絶対に踏み込まないような、新しい世界に深く触れたボランティア活動の、リアルな体験談を語ること」です。
私自身の人生を思い返してみても、あの大学時代のボランティア活動がなければ、重症心身障害児のための「レスパイトハウス」という福祉の現場には、自分の力だけでは絶対に、一生足を踏み入れることはなかったと確信しています。
ボランティアという活動は、利害関係のない、ある種の純粋な「好奇心」や「優しさ」だけで動くものです。 だからこそ、普段の自分の学校生活や仕事のコミュニティの中では、関わることができないような、異なる境遇に置かれた人々や、過酷な現実と戦っている現場に、直接触れることができる唯一のパスポート(乗車券)になります。
そこであなたが出会った人々、感じた葛藤、そして 「社会には、こんなにも助けを必要としている人がいるのに、なぜ今まで自分は気づかなかったのだろう」 「自分はこれから、この人たちのために、自分の頭脳や時間を使って何ができるだろうか」 という、胸の奥から湧き上がってきたピュアな問題意識。
これこそが、面接官が何よりも聞きたい、あなたの「人間性の本質」であり、医師という人を救う職業を目指す上での、この上なく説得力のある「一生物の志望動機」になるのです。
部活の部長をした、という過去の肩書きよりも、 「私はボランティア活動を通じて、このような過酷な現実と出会い、そこで自分の無力さを知ると同時に、人を救うことの尊さを肌で学びました。だからこそ、将来は医師として、このように社会を支えていきたいのです」 と語る言葉の方が、何倍も力強く、何倍も面接官の胸に温かく刺さるのだということを、ぜひ覚えておいてくださいね。
第六章 共通テスト8割への執念です。言い訳をせず「1年で合格する」と決めた背水の陣
1 自分の学力がおがましいと感じていたからこそ、1年の期限を厳格に設定しました
ここまで、私の志望動機や面接で話したエピソードの裏側についてお話ししてきましたが、実際の受験勉強を進めていく上では、きれい事だけでは片付けられない、本当に過酷な現実的な壁が立ちはだかっていました。 それは、「そもそも、自分の今の学力で、本当に医学部に合格できるのだろうか」という、学力面での果てしない不安でした。
再受験を始めた当初の私は、元々それほどまでにお勉強の成績が抜群に良い人間ではありませんでした。 ですから、 「今の自分の低い学力からスタートして、あの超難関である医学部合格を目指すなんて、周囲の人から見れば、本当におがましくて、身の程知らずな挑戦なのではないか」 と、自分の実力のなさに、いつもひどく劣等感を抱いていました。
医学部合格までに、一体何年の歳月がかかるのだろう。 2年、3年、あるいはそれ以上、出口の見えない暗闇の中を走り続けなければならないのだろうか。 そう考えると、恐怖で心臓がバクバクと震える日もありました。
そこで私は、ダラダラと多浪(何年も浪人すること)の沼にハマってしまうのを防ぐために、自分に対して非常に厳しい、クリアな「期限と条件」を設定することにしました。
それは、「医学部再受験への挑戦は、何があっても最初の1年間、今年限りで終わらせる。そして、共通テストの自己採点で『8割』を超えることができなければ、その時点で医学部受験をきっぱりと諦めて撤退し、合格している薬学部や他の道に進む」という、まさに退路を完全に断った背水の陣のルールでした。
2 薬学部合格を蹴って医学部に賭けた、私の合格までのラストスパートです
私は元々、以前に薬学部にも合格をいただいていたのですが、その時は自分の「本当にやりたいことは何だろう」という想いと葛藤した末に、その合格を蹴って別の道に進んだ、という過去がありました。 ですから、今回の再受験にあたっては、 「薬学部であれば、自分のこれまでの努力の延長線上で、確実に1年で合格ラインを突破することができるだろう。でも、本音の、心の底の1番深いところにある願いは、やっぱりあの産業医として働く人を救うために、医学部に入って医師免許を取ることなんだ」 という、自分自身の本音を、もう二度と誤魔化したくはありませんでした。
「薬学部の合格を最低限のセーフティネット(安全網)として確保しつつ、本気で医学部合格を目指して、1秒も無駄にせずに1年間を駆け抜ける」
共通テストで絶対に8割を取る、という強い執念が、私の日々の勉強の質を劇的に高めました。 模試の結果が悪くて泣きたくなった日も、 「ここで諦めたら、私のあの産業医になりたいという夢は、ただの妄想で終わってしまう」 と、自分を奮い立たせ、ボロボロになるまで英単語帳や物理・化学の公式を復習し続けました。
そして迎えた、運命の共通テスト本番。
自己採点の手が震える中で、問題用紙に書き込んだ自分のマークを1つずつ確認していきました。 すべての科目の採点を終えて、電卓の数字を叩き出した瞬間、 「80パーセント(8割)」 という文字が、画面に美しく表示されたのです!
「やった。これで、おがましいと自分を責めていた医学部への挑戦権を、自分の力で勝ち取ることができたんだ」
この瞬間、私は迷うことなく、働く人々の健康を守るための唯一無二の学び舎である、産業医科大学医学科への出願を決めました。 そして、これまでに自分で必死に作り上げてきた「韓国語ラジオの1年半の継続エピソード」や「お弁当作りのインスタ投稿」、そして「レスパイトハウスでの心を揺さぶられたボランティアの体験談」のすべてを、面接試験で100パーセントの熱量を持ってぶつけました。 結果として、面接官の先生方からも、「君のその高い行動力と継続力、そして働く人への温かい視線は、我が校が求める理想の医師像にぴったりだ」と、本当に身に余るほど高く評価していただき、見事に1年での一発合格を勝ち取ることができたのです。
終わりに:小さな一歩を信じて、あなただけのストーリーを始めましょう

今回は、私が会社員生活を経て、産業医科大学医学部に合格するまでの泥臭い受験経験に基づいた、「お医者さん嫌いだった私が医師を志した本当のきっかけ」について。 そして、「面接官の耳を通り過ぎる優等生的なリーダーアピールをやめて、ボランティア活動という新しい世界に触れた体験を語る極意」や、「韓国語ラジオやお弁当作りを通じた、三日坊主のコンプレックスを自信に変える小さな継続力の磨き方」について、たっぷりと語らせていただきました。
読者の皆さんが今抱いている、 「自分には面接で誇らしくアピールできるような、素晴らしい経歴やリーダー経験が何もないという不安」や、 「何かをコツコツと長く続けることができずに、すぐに三日坊主で終わってしまう自分の弱さに対する焦り」は、 かつて私が、会社員時代のひどい労働環境の中でため息をつき、 「自分を変えたいけれど、どうすればいいか分からない」と、 夜の自室の天井を見つめて涙を堪えていたあの頃と、何一つ変わりません。
しかし、今日お話ししたように、面接官が本当に求めているのは、どこかの誰かが作ったような完璧で無機質なロボットではありません。 自分の弱さを素直に認めながらも、好奇心一つで普段踏み込まないような世界へボランティアとして一歩を踏み出し、好きな韓国アイドルのラジオや毎日のお弁当作りといった、本当に些細な出来事をパッションを持って長く続け、自分自身を一生懸命に変えようと格闘してきた、その温かくて泥臭い「人間味あふれるリアルなストーリー」そのものなのです。
今、皆さんが机の上で、自分の不甲斐なさに葛藤しながらも、なんとか明日を良いものにしようとこの記事を読み、ペンを握ろうとしているその姿勢は、本当に立派で、何よりも美しい挑戦の姿です。 その一歩一歩の小さな試行錯誤こそが、将来、多くの患者さんの痛みに寄り添い、理不尽に押し潰されそうな働く人々の命を産業医として優しく下から救い上げてあげるための、何よりの強固な土台になるのですから。
どうか、自分自身の秘めた可能性と、これから積み上げていくあなただけの物語を、信じてあげてくださいね。 あなたがすべての葛藤と面接への不安を跳ね除けて、春に笑顔で医学部の門をくぐり、私たちと一緒に素晴らしい医師への道を歩み始められる日を、北九州の産業医科大学の地から心より応援しています。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
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最後までお読みいただきありがとうございました。
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